京都・伏見の日本酒の歴史
~古代から現在に至る波瀾万丈の歩み~
日本中どこを見ても、「日本の歴史はすなわち我が街の歴史である」などという大それたことを主張できる都市は、京都をおいて他にない。そもそも、「京都」という呼び名そのものが、「首都」を意味する。日本酒の世界においても、現在、京都府は、伏見を中心に41の酒蔵がある全国有数の銘醸地である(出典:京都府酒造組合連合会HP、2022年11月5日現在)。さらに、「酒の神様」として全国の酒蔵から尊崇されている松尾大社も、ここ京都にある。
しかし、「日本酒」というものが、京都で初めて造られた、というわけではなさそうだ。日本列島に住む人々が米を原料とした酒を造るようになったのは、少なくとも、大陸から稲作の方法が伝来し、安定して米が収穫できるようになってからであることは間違いない。しかし、実は、それがいつ頃からかは未だに明確にわかってはいないし、どこが発祥の地なのかもわかっていない。
日本という国に酒というものが存在したことを示す最古の記録は、中国で3世紀に書かれた「三国志」中の「魏志倭人伝」である。この中では、倭人が「人性嗜酒(さけをたしなむ)」と評しており、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があると述べている。ただ、この酒が具体的に何を原料とし、またどのような方法で醸造したものなのかまではわからない。現在のような「麹を使って原料米のデンプンを糖化して造られる酒」についての記述が日本人自身によって記された記録は「三国志」の時代から約500年も後まで待たねばならない。
8世紀初頭(716年頃)に書かれた「播磨国風土記」には、「携行食の干し飯が水に濡れてカビが生えたので、それを用いて酒を造らせ、その酒で宴会をした」という記述がある。そこから半世紀弱の時を経て編まれた「万葉集」(759年以降成立)にもさまざまな米の酒について詠まれた歌が残っているので、この頃までには、米で造られた酒は広く定着していたのだろう。古代の酒は、今も出雲や博多に残る練酒(ねりざけ)のように粘性の高いものが普通であったようだ。
『古事記』には百済人の須須許里(すすこり)が大御酒(おおみき)を醸造して天皇に献上したという記述がある。百済からの帰化人が用いた醸造法は、おそらく麹を使ったものであったろう。この頃から、宗教的儀式の際に酒を醸して飲むことが、朝廷の営みとして位置付けられるようになった。689年には飛鳥浄御原令に基づいて平城京に造酒司(みきのつかさ)が設置され、701年の「大宝律令」によってさらに体系化された「朝廷による朝廷のための酒の醸造体制」が整えられた。
794年、都は平安京に遷都され、京都は以後千年以上にわたり日本の政治・経済の中心となる。868年に書かれた「令集解(りょうのしゅうげ)」では、平安京にも平城京と同じ酒を醸す部署である「造酒司」が存在していたことが記されている。967年に書かれた「延喜式」によれば、この頃の酒質は米と麹を数回に分けて仕込む濃醇な酒であったことが伺える。
鎌倉時代、京都を中心に商業が盛んになると、酒は、米と同等の経済価値を持った商品として流通するようになった。京都でも、酒の製造と販売を両方行う造り酒屋が隆盛した。室町時代もこの傾向は続き、1425年には洛中洛外の酒屋の数は342軒に達していたと言われる。室町時代は京都の酒造業にとって急成長の時代であった。この頃銘酒として「柳」という銘柄が「日本一の酒」として全国に名を轟かせていた。これは、現在、伏見の増田德兵衞商店が、「月の桂 純米吟醸 柳」としてその名を偲び発売している。
戦国時代の動乱を経て江戸時代。やがて、都で儲かる商売だった造り酒屋は日本各地にできていき、各地で作られた酒が京都の市場に出回るようになった。室町時代に隆盛を誇った京都の酒は、度重なる戦乱や大火に見舞われ打撃を受け、また、新興の銘醸地である伊丹、池田、灘などとの競争に敗れ、次第に衰退していった。京都の酒屋は、他国から市中に入る酒を「他所酒(よそざけ)」と呼んで警戒し、排除しようと躍起になった。洛中洛外の酒屋からは、価格の安い他所酒の販売差し止めを陳情する願い状が、たびたび江戸幕府の奉行所に提出されている。
俯瞰してみれば、この他所酒こそが、のちの日本酒文化を支える地酒文化の原点でもあったが、京都及び伏見の酒はその後、長い低迷の時代を迎える。江戸時代の初期は安くて品質の良い近江酒がライバルであった。さらに、19世紀に入ると、大消費地・江戸で灘酒との競争に敗れた伊丹酒が、伊丹を所領とする公家の近衛家の後押しで、大量に京都市場に流入し、ただでさえ苦境にあった京都と伏見の酒に追い打ちをかけた。伏見で見ると、1657年に83軒あった伏見の酒屋は、1785年には28軒までに減ってしまうほどの打撃だった。
江戸時代が戊辰戦争の動乱を経て終わり、明治時代になったころ、京都も伏見も、鳥羽伏見の戦いに端を発する大火で壊滅的被害を受けていた。この圧倒的にアウェイな状況を大逆転した功労者がいる。
伏見の老舗酒蔵、笠置屋は、奇跡的に鳥羽伏見の戦いに端を発する伏見の大火を免れ、明治期以降伏見酒の復興を支えていた。11代当主、大倉恒吉は旧大名の屋敷地や廃業した酒蔵を取得して規模を拡大、酒蔵経営を近代化し、また、オリンピックの勝者に贈られる月桂樹の冠にちなんだ「月桂冠」という当時としては斬新な銘柄名を採用した。のみならず、明治40年(1907)、酒造りに科学技術を導入、明治42年(1909)には企業研究所として「大倉酒造研究所」を創設した。
当時の酒は品質が安定せず腐造が多発した。容器も樽で運搬して酒屋で量り売りするスタイルだった。腐敗を防ぐため、酒には防腐剤のサリチル酸が加えられていた。この問題を解決するため、大倉酒造研究所では、加熱殺菌の条件を科学的に確立し、明治44年(1911)に日本で初めて「防腐剤なしのビン詰め酒」を商品化した。「防腐剤なし」で「ビン詰の酒」は、合理化志向で衛生への意識が高い当時の都会のサラリーマン層に強く支持され、「月桂冠」は銘酒として全国にその名を知られることとなった。さらに、当時整備されつつあった鉄道網を巧みに利用、江戸時代かなわなかった東京進出を可能にしたことにより、一躍「伏見の酒」は銘醸地としての地位を獲得することとなるのである。
大倉恒吉が率いた改革は、伏見が酒造業の集積地として栄えるきっかけとなった。こうした新しい取り組みはその後数々なされていったが、それを支えたのが、伏見の蔵元達を束ねた伏見醸友会という組織である。大正2年(1913)に6名から発足し、現在は15蔵が加盟している。伏見醸友会は、それまで経験と勘に頼ってきていた酒造りに科学を導入、四季醸造設備の導入だけでなく、吟醸用酵母開発や新しい醸造法の開発、原料米や麹菌の開発など、伏見の酒造りを多面的に支えてきた。
現在では、京都府は、兵庫県に次いで、全国の日本酒生産量第2位の地位を占めている。江戸時代に経験した苦難を乗り越え、京都・伏見の酒は見事、大輪の花を咲かせていると言えよう。
(文・山口吾往子)
<参考文献>
吉田 元(2016)『京の酒学』臨川書店
藤本昌代・河口充勇(2010)『産業集積地の継続と革新~京都伏見酒造業への社会学的接近』文眞堂
国税庁(2021)『日本の伝統的なこうじ菌を使った酒造り』調査報告書「日本酒の歴史」p15-54
月桂冠株式会社ホームページ(https://www.gekkeikan.co.jp/)(最終閲覧:2022-11-5)
公益財団法人 日本醸造協会ホームページ(https://www.jozo.or.jp)(最終閲覧2022-11-5)
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